お笑い芸人の「ファンサービス」について考える
「女性シンガーソングライター刺殺事件」が最近話題となっている。これは他人事ではない。「女性」や「シンガーソングライター」などの肩書がなくても、起こり得る事件なのだ。
2016年5月24日、銀シャリの新ネタライブ、『新米寄席』が開催された。いつものように漫才をする銀シャリだが、下手側に違和感が。鰻さんがトレードマークの青いジャケットを、NGKに忘れてきてしまったのだ。
上方漫才大賞奨励賞に寄せて
春日を見ると元気になれる
バッファロー吾郎A先生の『グル名刺』を読んだ
私は舌バカだ。何を食べても「美味しい」と言い、全部平らげてしまう。小学校の給食を「不味い」というクラスメイトが信じられなかった。
大学生になってから一人暮らしを始め、「友人と一緒に食事をする」という行為を覚えた。しかし大学生は基本的に貧乏な生き物。飲み会といえば鳥貴族、昼食を取るならサイゼリアだった。お腹が満たされればなんでもよかった。
社会人になってからもその感覚は変わらず、行きつけの店といえばタバコの吸えるチェーン店ばかり。モスバーガーとミスタードーナツ神と崇めている20代の女。
もともと食に興味がない上に、昨年の10月くらいから食欲まで低下した。ウィダーinゼリーとチオビタドリンクだけの日が多々あった。「何か食べないと死ぬけれど、何かを選ぶのは面倒臭い」という状態だ。今も「卵かけご飯と納豆でも食べてたらいいでしょ」みたいな有様。そんな私が『グル名刺』を読んだのは、単純にバッファロー吾郎のファンだったからだ。『マンスリーよしもと』で一通り読んではいたが、一冊の本として、しっかりと向き合いたいと思った。
A先生の思い出深い店が紹介されていくのだが、まずその思い出が面白い。バッファロー吾郎ファンとして、芸人ファンとしてたまらないエピソードがどんどん出てくる。食よりもむしろ思い出に行数が割かれている場合もある。店の雰囲気に大半が使われている場合もある。少ない行数しか使われていないはずの食に関するレビューは、A先生節が炸裂していて、「美味しかったんだな」としか伝わらないこともある。某店のチキン南蛮は「2兆7点」らしい。
そして何より、紹介される店の立地が絶妙なのだ。舞台の出番の合間や、終演後に訪れることが多いのか、ルミネの近くだったり、NGKの近くだったりする店が多く紹介されている。私は方向音痴なので、新宿駅からルミネまでの行き方や難波駅からNGKまでの行き方はわかるが、すこしエリアを変えられると途端に迷子になってしまう。つまり「A先生の行きつけの店なら迷わずに行けそう」なのだ。
「行ってみたい」と思った。食に疎い私が「行ってみたい」と思った。載っている店は全て行ってみたいのだが、取り敢えず、ルミネとNGKに近そうで、価格が比較的安そうな店に付箋を貼りながら読んだ。読み終わった後には、6色セットの真新しい付箋の紫が全部なくなり、ピンクが半分になっていた。コメダ珈琲で暇つぶしにグルメガイドを読んでも、ピンと来たことは一度もない。写真付きのグルメガイドに、名刺の画像しかない『グル名刺』が勝ったのだ。
『グル名刺』は3部に分かれている。A先生が店を紹介するパート、グルメ漫画家と対談をするパート、そして漫画パートだ。漫画パートでは、筆を執ることに葛藤するA先生が出てくる。悩めるA先生はBさんと出会う。Bさんとの会話によって、A先生はいろいろなことに気付かされる。漫画の「最終話」でBさんが言うセリフ、A先生が辿り着いた結論に、目頭が熱くなる。そこに「バッファロー吾郎の本質」を見た。
「グルメ」や「名刺」で人と人との絆が生まれていく。心の奥がぽかぽかし、お腹がすく。あと5周読んだら、付箋がとんでもないことになりそうだ。
私にとってのBさんは、A先生かもしれない。
新しい波を乗り越えて
2009年1月に放送されたもので、私の手元にはデータも残っていないから、このブログはとてもかすかな記憶を頼りに書いている。間違っている点、私の知らない情報等はぜひ教えてほしい。
『新しい波16』という番組があった。『めちゃイケ』、『はねトび』に続く番組を作るため、若手芸人を発掘することが趣旨だった。2009年1月26日に「東西吉本漫才対決」として銀シャリが出演した。多分「アルファベット」と「桃太郎」のネタだった。当時から司会のウエンツ瑛士さんに「ベテラン」だと言われ、もちろん「鰻」という苗字を散々弄られた。
番組の最終回は、今まで出演した芸人の中から選抜されたメンバーがスタジオに並んだ。まだ「鎌鼬」だった、かまいたちもいた。銀シャリもいた。
この中のメンバーから更に選抜され、『ふくらむスクラム!!』が始まった。初回にいたメンバーは、オレンジサンセット、ヒカリゴケ、ニッチェ、少年少女、しゃもじ、かまいたち、バース、そして銀シャリ・橋本直。
何故かバースと橋本さんは初回だけの出演だった。『ふくらむスクラム!!』は『1ばんスクラム!!』に改変し、ゴールデンに進出することもなく終了した。そんな事実を知っている今だからこそ、「銀シャリが選ばれなくてよかったのかも」と思えるが、当時は打ちひしがれた。
どうして橋本さんだけが呼ばれたのか。悲しかった。「鰻和弘」と「橋本直」で「銀シャリ」なのにどうして橋本さんだけが呼ばれたのか。まだ結成して4年も経っていない頃だった。鰻さんは「自分だけ呼ばれなかった」ことをどう思ったのだろう、と考えるとつらかった。相方がフジテレビのめちゃイケ・はねトびスタッフに気に入られ、1人で東京のテレビに出演し、しかも結局レギュラーにはなれなかった。どんな気持ちだったのだろう。
私は『新しい波16』の最終回の時に高校2年生。『ふくらむスクラム!!』初回は受験生になったばかり。三重の片田舎に住んでいた私は、baseよしもとまで駆け付けて銀シャリの気持ちを聞くことなんてできなかった。だから鰻さんの真意も橋本さんの真意も分からないが、とにかく、「ファンとして」つらかった。「銀シャリ」として評価されないことがつらかった。
5up時代の単独ライブが嫌いだった。メモを片手に観る客が多かった。橋本さんのツッコミのフレーズばかり記録し、ネットに掲載していた。「橋本は上手いが鰻がダメ」の言葉を散々見てきた。悔しかった。
私は「銀シャリ」が好きなのだ。特に好きなのは、2人の笑いに関する感性が似ているところだ。2月にはPOISON GIRL BANDの吉田さんと橋本さんの漫才を観たが、吉田さんのボケは絶妙に鰻さんのボケとは違うのだ。鰻さんは言わないようなボケなのだ。「銀シャリ」の漫才は、鰻さんと橋本さんでしか成り立たないのだ。
今、銀シャリは関西ローカルに出突っ張りだ。本人たちも「ずっと2人で仕事をしている」と言ってしまうくらい、「銀シャリ」としてテレビに出て、漫才をして、冠のラジオを5年以上続けている。
嬉しい。単純に嬉しいのだ。私は『新しい波16』と『ふくらむスクラム!!』を観てきたからこそ、銀シャリが「銀シャリ」として世間に求められている事実が嬉しいのだ。
最近の漫才は特に、鰻さんらしさ、橋本さんらしさが目立つ。お互いに解散を繰り返して銀シャリを結成したから、鰻さんには橋本さんしか、橋本さんには鰻さんしかいないんだと思う。これからもずっと、2人で、楽しく銀シャリでいてほしい。
『Aladdin』が好きだ
私はディズニー映画の『Aladdin』の大ファンだ。自他ともに認める大ファンだ。ディズニーシーの門が開くと同時に、アラビアンコーストに行ってしまうくらいには『Aladdin』の世界観が好きだ。
特に好きなのは、ランプの精・ジーニーだ。彼のコミカルな喋り、コロコロと変わる表情、友人であるアラジンに対する優しさ、全部が大好きだ。
そんな私が『Aladdin』で一番好きなシーンは、冒頭部分、行商人が通行人(視聴者)に語りかけるシーンだ。行商人は「昔々、魔法のランプがある1人の若者の人生を変えた」と言う。興味を持った通行人に、その話を昔話として語るところから、お馴染みのストーリーが始まる。
『Aladdin』を観たことがある人の何割が、このシーンを覚えているのだろうか。「そんな人いたっけ?」と思うのも無理はない。このシーンは本筋とは関係のない、カットしてもいいような時間だからだ。だが、私はこのシーンが一番好きだ。
このブログを読んでいるのなら、「アラジン 行商人」で画像を検索してほしい。行商人の指を見てほしい。彼は4本指なのだ。
ミッキーマウスの指は4本。アラジンの指は5本。ジャスミンの指は5本。ジーニーの指は4本。ディズニー作品において、4本指とは「人間ではない」ということを意味する。つまり行商人は人間ではない。
日本語吹き替え版では声優が異なるため分かりづらいが、アメリカの原作版ではジーニーの声優も行商人の声優もロビン・ウィリアムズ。つまり、行商人はジーニーが変身した姿。『Aladdin』は、ジーニーが昔話として視聴者にアラジンの半生を語っている映画なのだ。
「昔」がどの程度昔なのかは本編から分からないので、ここからはファンの考察にすぎないが、アラジンはもう、この世にいないのではないだろうか。ジーニーの一番の願いであった「自由」を与えてくれた親友・アラジンは死んでしまった。ジーニーはそんなアラジンの優しさを、彼が死んだあとも語り継いでいきたかったのではないだろうか。
アラジンが死んだ時、ジーニーはどんな気持ちだったのだろう。アラジンの妻であるジャスミンが死んだ時、ジーニーはどんな気持ちだったのだろう。ジーニーは何年、哀しみに暮れたのだろう。
しかしジーニーは行商人に化け、視聴者に「愉快な話」としてアラジンの半生を語りかける。アラジンの死はジーニーにとって悲劇だったに違いない。しかし角度を変えれば、それは喜劇になるのだ。
哀しみを背負いながら、ジーニーは今日も軽快な口調でランプについての逸話を語る。私は、『Aladdin』が好きだ。